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宇宙の片隅の記

なんについてのブログかよくわからないブログ

【コラム】Dream Theater 魂のスピードの音楽

音楽 コラム

久しぶりにドリームシアターを聴いた(といっても数日振りくらいだが)。携帯音楽プレイヤーで曲のシャッフルをしていたら"Honor Thy Father"に当たり、そこから続けてConstant Motionを聴いていると、これが「魂のスピード」の音楽ではないかということに思い至った。(なおこの「魂のスピード」という語を用いているのは前エントリで書いたマンコマン氏である。)"Constant Motion"はTunnel vision at blinding speedと歌い出し、その後very soulという語が出てくるとおり(英語がわからない私にはvery soulがどういった用法なのかよくわからないのだが)、確かにこの曲は「魂のスピード」というような疾走感を感じさせるのだ。歌詞も好きで、駆動するままにどこまでも進んでいく、といった歌だ。ちなみにメタリカに似ていると言われる同曲だが、メタリカの曲をよく知らないのでどれに似ているかわからない。またこの曲の入っているアルバムSystematic Chaosは全体的に見るとあまり良くないのだが、Constant MotionやThe Dark Eternal Nighは単体で聴くことが多い。Honor Thy Fatherや他にはThe Count of Tuscanyの冒頭など、ドリームシアターのあの駆け抜ける疾走感が好きなのだ。

(ついでに書いておくと超絶技巧や個々のメンバーのテクニックが称賛されることの多いドリームシアターだが、ドリームシアターの曲は単純にメロディが美しいと思っている。誰も言わないのだが。)

だが残念なのは、今のドリームシアターからそのような疾走感がなくなってしまっていることだ。原因はやはりマイク・ポートノイが抜けたからだと思っている。私が本格的にドリームシアターを聴きはじめたときにポートノイは脱退してしまっていたのだが、もうあのような曲が作られないと思うと本当に残念だ。ポートノイ脱退については各自意見があるところだと思うが、どうか戻って来て欲しい。

マンコマン氏と実存 虚構とキャラクターとの関わり

思索・考察 雑記

あまり内輪的な話は書きたくないので他の人にも読める内容にしたいものの、説明的に書くのが苦手なので事情がわからない人にはこの記事の内容がまるで何のことやらわからないかもしれないと危惧を覚えているのですが、そういった方は問題意識だけでも感じ取ってもらえると幸いです。

さて多くの方はタイトルにあるマンコマンって誰?と思われると思いますが、そういった名前でツイッターツイキャスをやっている方がおられるわけです。

それで先日もマンコマンさんのキャスが突発的に始まっていたので途中から聴かせてもらい、私もコメントをしていたわけですが、そこで重要な問題が提起されていたので感じたことをまとめておこうと、このブログ記事を書き始めたという次第です。(ちなみにマンコマンさんのブログ http://lineblog.me/manko_man/

私などいわゆるオタクの教養が足りてなく、また最近のアニメからも離れてしまったのでマンコマンさんのいうエロゲやアニメの話などわからないところも多いのですが、マンコマンさんはオタクは作品をベタに読みすぎると言っていて、作品批評に対して「メタ」な視点を持っておられます。

先日のキャスでマンコマンさんはキャラクターについて「二次元は三次元、三次元は二次元」と言い、まるで禅問答のような言葉が語られていましたが(笑)、この言葉はキャラクターだけでなく作品そのものに対しても当てはまると思うのです。

つまり、現実と虚構との関わり合いといった問題です。これはフィクション論という分野のテーマであるのですが、私がフィクション論に興味を持っているのもまさにそうした問題意識からなわけです。(フィクション論は日本ではまだほとんど知られていないようなのですが、いくつかの関連書籍が出ています。)

余談ですが最近新刊の出た村上春樹も現実と虚構の関わり合いを意識し、自分の知る範囲では『村上春樹河合隼雄に会いにいく』などで言及していました。それで彼は『アンダーグラウンド』などで実際にあった事件に迫ろうとインタビューなどもしている訳です。

さて単に現実と虚構の関わり合いを問題とするなら、二次元・三次元といったオタク的文脈で語る必要はないのかもしれません。では敢えて「オタク」としてフィクション作品と関わるとはどういうことなのでしょうか。

ここではアニメを取り上げますが、アニメは実写ではなく描かれた絵でもって表現する手段として、最初から虚構性が強いメディアではないかと思うわけです。その最もたるものが実在の人間ではなく、極端に目が大きく造形された二次元キャラクターです。そうして一般には存在しないキャラクターまたは作品世界に対して我々の側から感情移入がされるとき、その世界が現実の我々とあまりにも乖離するが故に、次の段階ではいわばモニターの側から逆照射がなされ、ここにいる我々自らの実存が否応なく意識されることになるのです。

そうして問題は我々のあり方に向かい、そのため語られてきたのが本田透の『電波男』をはじめとしたオタク論ということになるのでしょう。そして避けて通れない、というよりは中心的なテーマであるオタクと恋愛、セクシャリティの問題が浮上します。単にオタク論というと今ではもう古臭くなってしまった感じがしますが、『電波男』にあるのはまさに(オタクや本田透自身の)実存の問題であり、その点でこれからも読み継がれるべきだと思います。

なお虚構への関心がキャラクターではなく作品の舞台のほうにいく場合もあり、その場合のオタクの行為は「聖地巡礼」として現れています。聖地巡礼も私にとっては興味のあるテーマです。

さて私などは粋がって自分のことをオタクではないと思っている訳ですが(笑)、オタクをキャラクターおよびフィクション、現実と虚構との実存の問題で捉えるなら、私はオタク的問題の只中にいるともいえる訳です。

ですがオタクがオタク的であるのはやはり「逃避」の意味合いが強く、作品を「消費」し、キャラクターに「萌え」、また一方最近ではオタクのほうでもカジュアル化し、一般層に開かれた趣味的なものになっています。そうした消費するあり方を批判する気はないのですが、同時に実存の問題として捉えていくしかないのではないかと思うのです。

 

話をマンコマンさんに戻します。私がすごいと思ったのは、マンコマンさんは作品批評に対してだけでなくそうしたメタな視点を持って自らの実存を語っておられる点です。

マンコマンさんはときどき「死とは」とツイッターでもつぶやいておられるのですが、キャスでの話を聴いているとその通り死の影を意識しておられるようです。ですが一見明るく、あんなふうに自らの実存を語れるのは自分からすれば真似できない芸当で、それは本当にすごいと思うところなのです。私などはエヴァでいう「ATフィールド」の壁が厚く、マンコマンさんのように率直に語ることはなかなかにできずにいます。

先日私は弟とホビーオフに行ったのですが(自分ではフィギュアは買わないものの、たまに行って眺めてくるのはそれなりに好きなのです)、あのおもちゃやフィギュアに囲まれた空間に行くといつも、自分はこのまま歳をとり、死んでいくことができるのかといった漠然とした感情を感じるのです。

そうした感情が現れるのは個人的な事情が大きいのですが、自分を取り巻く状況が何も変わらないままフィギュアなどが展示された空間にいると、ただ歳だけを重ねているという思いが年々強くなってくる訳です。

東浩紀が言及したことだと思いますが、キャラクターは歳をとりません。いってみれば彼・彼女らは不老不死な訳です。キャラクターと向き合うとき我々はそうした存在と向き合っている訳であり、また我々と作品世界との間の溝も依然として存在します。実に我々と虚構世界の間には計り知れない深淵が横たわっているのです。(ミヒャエル・エンデの小説『鏡のなかの鏡』の12番目の話では虚構世界と現実世界の深淵が表現されています。)

では我々はキャラクターや虚構、アニメ的虚構に対してどう接していけばいいのか。この溝を乗り越えるには(実際には乗り越えることはできないのですが)、やはりフィクションに対してメタな視点を持ち、批評的に虚構世界に関わり、同時にキャラクターに対しても同様に自らの実存との関わり合いを考え、対峙していくことしかないと思う訳です。(消費するあり方と批評することの問題は東浩紀の「萌えの手前、不能性にとどまること ――『AIR』について」という文章に現れています。)

ただここで論じたようなことはやや前時代的な問題であり、上に記したように特にこだわりなくカジュアルにオタク的作品に接するといったあり方のほうがもしかしたら今では主流になっているのかもしれません。そうして過度に入れ込まないように虚構世界に接していくのもまた一つの態度でしょう。

ですが私などはやはりマンコマンさんのいう「世界の真実」を追い求めていくべきだと思うし、そうした志を抜きにして次世代の文化を作ることはできないのではと思うところです。私はオタク文化やオタクカルチャーといった言葉があまり好きではないのですが、作家の辻村深月にネオカル日和というエッセイがありますが「ネオカルチャー」としてのアニメや漫画、ノベルゲームなどを含んだ新しい文化を作っていくべきだと思うのです。

 

さてここからはキャスであった内輪的な話です。もはやどうでもいいことのようですがツイキャスで答えられなかった事柄があって一応書いておきたいので書くと、 マンコマンさんの二次元に三次元を見るという考えに私は完全に同意していて現実にいそうなキャラクターが好きとか書いたんですが、私がそうした恋愛脳(笑)なのは個人的な事情で、あまり世代的なものではないと思います。世代でいうとマンコマンさんのいうオタク第三世代(エヴァブーム)の頃は二次元や萌えという言葉が生まれる前なので、逆にあまり二次元・三次元という区分は意識されていなかったのかもしれません。

ちなみにマンコマンさんは宮台信者とのことで、これもキャスのコメントで私はけいおん立花姫子が好きとか書いてマンコマンさんにもそのキャラは可愛いと思うとか言ってもらえたんですが(笑)、立花姫子といえばルーズソックスを履いていて一見当時のギャル的なものを思わせるキャラクターです。宮台といえば援助交際やらブルセラやらの論で有名になった人ですから、もしかしたらそんなところに関連があるのかもしれません。

あとココロコネクトに対して永瀬伊織だけでなく茶髪も好きとコメントしましたが、そのキャラクターはメインの桐山唯ではなく、瀬戸内薫というキャラでした。(誰もこんなモブキャラの名前は知らないと思いますが……)松岡江に関してもそうだけどどうも私はモブ的なキャラクターのほうに思い入れがあるようです。

なおココロコネクトといえばアニメは見たもののラノベの方は途中で脱落してしまったんですが、もしかしたらメサコンの問題として読み直せるのかなと思ったんですが、まあもう読まないでしょう。メサコンに関してはこの記事の前から別の文章を書いているのですが、書き終わったらいずれ公開しようと思います。

4DX行ってきた

映画

ずっと行こうと思っていた4DXの映画に行ってきた。観たのは『ドクター・ストレンジ』劇場はユナイテッド・シネマ、金曜日が会員デーなのでメンバーズカードを作ると安くなるためそれを作り、料金は計2900円。高い。席はどの席にしようかと迷ったがシアターのちょうど真ん中の席にした。 観客はほとんでいなくてほぼガラガラ。

 さてツイッターで上のような感想があったので行ったのだが、確かにいくつかのシーンは空間が横倒しになるエッシャーしていたが、それだけかなあ。最後は今後も続編を作る気があるような終わり方。

ストーリーの方はよくわからなかった。アクションが嫌いではないものの、どうも私はアメリカ映画のああいったアクションSFっぽいのが苦手なのかもしれない。どうも皆テンプレ的に作っているように思えてくるのである。

それはそれとして以下4DXと3Dについて

 

・映画が始まる前に本編とは関係のない映像で4DXギミックの洗礼を受ける。

・ウォッシャーはOFF推奨。メガネに水滴がかかる。だが誰もいないと自分と隣の席をOFFにしてもさらに遠くの席の水が飛んでくる。

・シアター内は暖房で少し暑いのに、時々ギミックで吹いてくる風が寒い。

・メガネの作りが少し雑。左右の耳をかける位置が合わないので上映前に壊さない程度に矯正していた。前にアバターを見たときはもっとしっかりしたメガネだったと思う。映画館によるのだろうが入場料が安くないのでここはちゃんと作って欲しい。

・3Dはやはり前の席がいい。もう二つくらい前の席でよかった。

 

まあ結論は、4DXはいらん。

 さすがにもう行かなくていいなあと思いました。やはり+1000円は高すぎる。最初は少し驚きましたがあとは椅子がただ揺れてるだけです(たまに肩や背中も叩かれます)。まるでマッサージチェアのよう。ただ3Dには行きたいので4DXでない3Dの上映にしてほしい。3D単体での上映がなく、3Dを見たければ4DXに行くしかない状況というのは厳しい。

 今ある映画は3Dの映画も2Dと同時上映であり、従来通りの2Dの文法(演出)で作っていると思う。だが3Dに特化した映画というのを見たいのである。ドクター・ストレンジを見て思ったことだが、車を操縦しているシーンで一人称的に運転する視点が続くのだが、それがリアルで自分が運転しているような感覚を味わうことができ、ずっと見ていたい。ところが普通の映画と同じようにすぐに画面が切り替わり別の視点になってしまうため、それがフラストレーションになってしまうのだ。これは他の多くのシーンにもいえる。3Dはやはり一人称視点に向いていると思う。2D版を作らない完全に3Dに特化した映画を制作し、3Dならではの演出を考えるべきである。

あと映画館内に劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-の宣伝があったのだが、3DでVRMMOものの作品を見てみたいと思った。たぶん向いているのでは思う。なにせVRMMOという別の仮想現実にダイブするという設定が3D映像そのままのギミックに当てはまるのだから。バトルシーンなどはうまく演出するときっととても面白いものができるはずだ。このジャンルで自分の納得のいく作品がないので是非とも作って欲しい。

そういえばゴダールの作った3D映画『さらば、愛の言葉よ』ってどうなんだろう。どこかの劇場でやらないだろうか。

【ラーメンレビュー】なんつッ亭の「ぼくの空」ラーメン

雑記

このブログで特にラーメンレビューをするつもりはないのですが、まあチェーン店の店に行ったので他の人にも役立つかもしれないと思いレビューします。

行ったのは「なんつッ亭」です。日清からカップラーメンが発売されているので食べたことのある人もいるかもしれません。

実は以前にも一回行ったことがあって、その時食べたのは普通のラーメン、なんつッ亭売りの黒マー油ラーメンです。ですがあまり感激しませんでした。というのはもやしが入っていたからです。私は二郎系以外のラーメンにもやしを入れるのはよくないと思っています。とくに炒めていないシャキシャキのもやしはよくありません。量が増すばかりで、もやしによって水分が増し、ラーメンの麺とスープに合わないように思えるからです。考えなしにもやしを入れている店はごまかしの手段にしか思えません。

それなのに今回行ったのは店が近いこともありましたが「ぼくの空」というラーメンがありおいしそうだったからです。これは魚介系のスープで、もやしが入っていません。かわりに玉ねぎが入っています。ラーメンに入れる玉ねぎは好きです。触感はシャキシャキですが。

 店に行くと行列にはなっていなかったものの、注文してからそれなりに待ちました。店内の言葉にベイビーとか書いてあるセンスが嫌ですが気にしないことにします。

ランチタイムサービスがある時間で麺大盛り無料、煮玉子、半ライスが無料で選べたので、煮玉子にしました。また下の写真の左側の具は肉のそぼろのようなものです。 

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 おいしかったです。ざらざらの触感の魚介系のスープが好きな人なら普通に薦められるラーメンだと思います。やはりサービスは半ライスにすべきでした。ラーメンと同時にレンゲでご飯を同時に食べればさらによかったかも。あのスープにご飯は間違いなく合うと思うからです。

3D映像・3D映画体験記

映画 雑記

昨年2016年はVR元年と呼ばれ、いつの間にかヴァーチャル・リアリティ技術は私の知らないうちに飛躍的な進歩を遂げていたらしい。ViveやOculusといったヘッドセットが発売され、ソフトも既にかなりの数が出ているようだ。

その6年前の2010年は3D元年と呼ばれたとのことだが、家庭用3Dテレビが次々と発売されたもののあまり一般的に定着はしなかったようだ。今後VRがどの程度普及するかはわからないが、3Dの立体映像はVRの前段階としてある。ここで私が体験することのできた範囲での3Dを思い出して書いてみたい。

3D映画の歴史は以外にも古く、wikipediaでは1952年から1954年にかけて最初の黄金時代があったというが、それから現在のデジタル上映になる2005年まで間の記述が抜けている。だがその間も何度か3Dのブームがあったようだ。http://eiga.com/extra/oguchi/2/

私が初めて3D映像に接したのは地元の映画館で見た、赤青セロハンを張ったメガネをかけて見るアナグリフ方式の、『ウルトラB ブラックホールからの独裁者B・B!!』(1988年)だった。http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20140910

20分の短編映画で、『エスパー魔美 星空のダンシングドール』『ウルトラB ブラックホールからの独裁者B・B!!』との同時上映だった。今では当然紛失してしまったが、映画を見終わった後メガネも家に持ち帰ったのである。

それとディズニーランドに行ったときアトラクション『キャプテンEO』(初演版)を観たことがあるが、これも同様のアナグリフ方式だったと記憶している。そのように最初の3D映像体験となるとまずあの赤青メガネが思い出されるが、今では知らない人も多そうだ。それからビデオゲームの映像は徐々に進化していったものの、3D映像の方面で特に技術革新は起こらず、どうやらしばらく下火になっていたようである。

その後3D映像を体験したのは2006年くらいだと思うが遊園地のとしまえんにあった、ゲームの『零~紅い蝶~』の映像だった。http://www.tecmo.co.jp/special/zero4d.htm

映画館同様のスペースで見ることができ、他のアトラクションとは別料金で一回500円だったはずだ。立体映像3D+体感効果ということなのか、和風ホラー4Dアクションという名称で呼ばれていた。体感効果というのはホラーだけあって途中椅子がいきなり下がったりするという、現在の4DX同様のギミックがついていた。ストーリーはよくわからなかったもの映像は今の3D映画と同じで、そのリアルさに感動した憶えがある。2005年の『チキン・リトル』がデジタル上映による初の3D映画ということだが、まだ当時デジタルの3D映像は珍しく、アナグリフ方式から時間が経っていることもあり、その時はリアルな没入感を体験することができた。これによって私は初めてヴァーチャル・リアリティ的なものを意識したのである。今はとしまえんのウェブサイトに記載が見つからないのでもうなくなってしまったものと思われるが、当時4DXの先がけのようなアトラクションが稼働していたということは、是非とも記憶しておきたい。

その後映画館でもデジタル3Dによる映画が上映されると知り、『ベオウルフ/呪われし勇者』(2007年)を観に行った。これはドルビー3Dの初採用作品であり、一般的な劇場で3D映画を見ることのできたおそらく初めての作品だと記憶しているが、正確なところはわからない。ただ『アバター』(2009年)が初めて3D上映の作品のように言われているがそんなことはなく、それよりはもっと早いのだが、もはや誰も覚えてないのかもしれない。

さて今や3D映画は冒頭に書いた3D元年を得て、結局家庭用にまでは浸透しなかったが映画館においては定着したといえる。だが今後しばらく技術面での大きな変化はなさそうである。

(次回更新予定のエントリーに続く)

【旅レポ・聖地巡礼】ラブライブ!神田明神~神保町

アニメ 旅レポ 聖地巡礼

東京にいたときに時間があったから神田明神靖国神社に寄ることにした。神田明神は言わずとしれたアニメ『ラブライブ!』の聖地であるが、私の目的は靖国神社ともに、聖地巡礼というよりは見学程度の意味合いだ。

さて神田明神御茶ノ水駅が最寄り駅である。駅からは徒歩十分くらいだろうか。

アニメを見た限りではあの長い階段が正面に位置しているような印象だったが、実際は神社の右手側にある。

 

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後ろのキャラは神田明神のキャラクターではなく藤真拓哉の描いた「アニメ・マンガ地域サミット」のマスコットキャラらしい。

 

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靖国に行くために御茶ノ水駅に戻る途中。丸ノ内線の電車が地上に出て交差したところを偶然撮影

 それから靖国神社までは歩こうと、神保町まで行きました。

 

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日本文芸社前のウィンドウ。私も写ってしまっています。マスクしてます。

 

ここで足が疲れてしまい、一駅だけですが神保町から九段下まで地下鉄で行くことにしました。

その時の電車が東武鉄道クレヨンしんちゃんラッピングトレインだった(半蔵門線にも乗り入れるため)。だけどスマホが急におかしくなり撮影失敗……

 

次は靖国神社に行ったときのことを書きます。

【コラム】暴君トランプとビッグブラザー

政治 コラム 思索・考察

長い文章を書くのは大変なので、時に短い文章もコラムとして書くことにしました。 

ヒロ・マスダ / Hiro Masuda on Twitter: "『サウスパーク』創作者がトランプ政権の風刺はやらないとコメント。理由「風刺を現実にやってしまっているから笑えない、コメディとして難しい」

 大塚英志の『サブカルチャー反戦論』を読んでいたら、この本の発売当時のイラクジョージ・W・ブッシュ大統領の話が出てきた。それで当時のことを思い出したのだが、さて今やアメリカの大統領はドナルド・トランプである。就任したばかりだというのに入国禁止令を出し、メキシコとの国境に壁を作る準備を始め、排外主義的な政策を続けている。

しかしよくこんな一見わかりやすい暴君が大統領にまでなったものだと感じる。アメリカ・ファーストを連呼したトランプだが、かといってブッシュのようなアメリカの正義を信じているわけではなく、経営者時代からトランプは自ら敵を作り出していく手法だったということで、今も会社経営と同じ感覚で大統領に就いているように見える。もはや信じられていたアメリカの正義ではなく、国家がビジネスと同じ理念でやっていくことになったようだ。

アメリカでは今ジョージ・オーウェルの『1984』が売れているというが、村上春樹の『1Q84』では「この現実の世界にはもはやビッグブラザーの出る幕はない、そのような人物が現れても我々は気をつけろ、あいつはビッグブラザーだと指摘するからだ」といった箇所があった。実際に『1984』に書かれている内容とは違うかもしれないがその通り暴君的な暴君としてトランプが台頭したことは、サウスパーク創作者の言葉通り現実がコミカル(戯画的)なものになってしまったということだろう。

コミカルなものは時にグロテスクと紙一重であり、そうした現実はそれほどわかりやすく把握できるわけではないようだ。だがかつてのようにアメリカはもはや共産圏やイラクといった仮想的国を見出すことができず、隣国や隣人に直接攻撃性を向けてしまっていることだけは確かなようだ。