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宇宙の片隅の記

バイクブログです

マンコマン氏と実存 虚構とキャラクターとの関わり

あまり内輪的な話は書きたくないので他の人にも読める内容にしたいものの、説明的に書くのが苦手なので事情がわからない人にはこの記事の内容がまるで何のことやらわからないかもしれないと危惧を覚えているのですが、そういった方は問題意識だけでも感じ取ってもらえると幸いです。

さて多くの方はタイトルにあるマンコマンって誰?と思われると思いますが、そういった名前でツイッターツイキャスをやっている方がおられるわけです。

それで先日もマンコマンさんのキャスが突発的に始まっていたので途中から聴かせてもらい、私もコメントをしていたわけですが、そこで重要な問題が提起されていたので感じたことをまとめておこうと、このブログ記事を書き始めたという次第です。(ちなみにマンコマンさんのブログ http://lineblog.me/manko_man/

私などいわゆるオタクの教養が足りてなく、また最近のアニメからも離れてしまったのでマンコマンさんのいうエロゲやアニメの話などわからないところも多いのですが、マンコマンさんはオタクは作品をベタに読みすぎると言っていて、作品批評に対して「メタ」な視点を持っておられます。

先日のキャスでマンコマンさんはキャラクターについて「二次元は三次元、三次元は二次元」と言い、まるで禅問答のような言葉が語られていましたが(笑)、この言葉はキャラクターだけでなく作品そのものに対しても当てはまると思うのです。

つまり、現実と虚構との関わり合いといった問題です。これはフィクション論という分野のテーマであるのですが、私がフィクション論に興味を持っているのもまさにそうした問題意識からなわけです。(フィクション論は日本ではまだほとんど知られていないようなのですが、いくつかの関連書籍が出ています。)

余談ですが最近新刊の出た村上春樹も現実と虚構の関わり合いを意識し、自分の知る範囲では『村上春樹河合隼雄に会いにいく』などで言及していました。それで彼は『アンダーグラウンド』などで実際にあった事件に迫ろうとインタビューなどもしている訳です。

さて単に現実と虚構の関わり合いを問題とするなら、二次元・三次元といったオタク的文脈で語る必要はないのかもしれません。では敢えて「オタク」としてフィクション作品と関わるとはどういうことなのでしょうか。

ここではアニメを取り上げますが、アニメは実写ではなく描かれた絵でもって表現する手段として、最初から虚構性が強いメディアではないかと思うわけです。その最もたるものが実在の人間ではなく、極端に目が大きく造形された二次元キャラクターです。そうして一般には存在しないキャラクターまたは作品世界に対して我々の側から感情移入がされるとき、その世界が現実の我々とあまりにも乖離するが故に、次の段階ではいわばモニターの側から逆照射がなされ、ここにいる我々自らの実存が否応なく意識されることになるのです。

そうして問題は我々のあり方に向かい、そのため語られてきたのが本田透の『電波男』をはじめとしたオタク論ということになるのでしょう。そして避けて通れない、というよりは中心的なテーマであるオタクと恋愛、セクシャリティの問題が浮上します。単にオタク論というと今ではもう古臭くなってしまった感じがしますが、『電波男』にあるのはまさに(オタクや本田透自身の)実存の問題であり、その点でこれからも読み継がれるべきだと思います。

なお虚構への関心がキャラクターではなく作品の舞台のほうにいく場合もあり、その場合のオタクの行為は「聖地巡礼」として現れています。聖地巡礼も私にとっては興味のあるテーマです。

さて私などは粋がって自分のことをオタクではないと思っている訳ですが(笑)、オタクをキャラクターおよびフィクション、現実と虚構との実存の問題で捉えるなら、私はオタク的問題の只中にいるともいえる訳です。

ですがオタクがオタク的であるのはやはり「逃避」の意味合いが強く、作品を「消費」し、キャラクターに「萌え」、また一方最近ではオタクのほうでもカジュアル化し、一般層に開かれた趣味的なものになっています。そうした消費するあり方を批判する気はないのですが、同時に実存の問題として捉えていくしかないのではないかと思うのです。

 

話をマンコマンさんに戻します。私がすごいと思ったのは、マンコマンさんは作品批評に対してだけでなくそうしたメタな視点を持って自らの実存を語っておられる点です。

マンコマンさんはときどき「死とは」とツイッターでもつぶやいておられるのですが、キャスでの話を聴いているとその通り死の影を意識しておられるようです。ですが一見明るく、あんなふうに自らの実存を語れるのは自分からすれば真似できない芸当で、それは本当にすごいと思うところなのです。私などはエヴァでいう「ATフィールド」の壁が厚く、マンコマンさんのように率直に語ることはなかなかにできずにいます。

先日私は弟とホビーオフに行ったのですが(自分ではフィギュアは買わないものの、たまに行って眺めてくるのはそれなりに好きなのです)、あのおもちゃやフィギュアに囲まれた空間に行くといつも、自分はこのまま歳をとり、死んでいくことができるのかといった漠然とした感情を感じるのです。

そうした感情が現れるのは個人的な事情が大きいのですが、自分を取り巻く状況が何も変わらないままフィギュアなどが展示された空間にいると、ただ歳だけを重ねているという思いが年々強くなってくる訳です。

東浩紀が言及したことだと思いますが、キャラクターは歳をとりません。いってみれば彼・彼女らは不老不死な訳です。キャラクターと向き合うとき我々はそうした存在と向き合っている訳であり、また我々と作品世界との間の溝も依然として存在します。実に我々と虚構世界の間には計り知れない深淵が横たわっているのです。(ミヒャエル・エンデの小説『鏡のなかの鏡』の12番目の話では虚構世界と現実世界の深淵が表現されています。)

では我々はキャラクターや虚構、アニメ的虚構に対してどう接していけばいいのか。この溝を乗り越えるには(実際には乗り越えることはできないのですが)、やはりフィクションに対してメタな視点を持ち、批評的に虚構世界に関わり、同時にキャラクターに対しても同様に自らの実存との関わり合いを考え、対峙していくことしかないと思う訳です。(消費するあり方と批評することの問題は東浩紀の「萌えの手前、不能性にとどまること ――『AIR』について」という文章に現れています。)

ただここで論じたようなことはやや前時代的な問題であり、上に記したように特にこだわりなくカジュアルにオタク的作品に接するといったあり方のほうがもしかしたら今では主流になっているのかもしれません。そうして過度に入れ込まないように虚構世界に接していくのもまた一つの態度でしょう。

ですが私などはやはりマンコマンさんのいう「世界の真実」を追い求めていくべきだと思うし、そうした志を抜きにして次世代の文化を作ることはできないのではと思うところです。私はオタク文化やオタクカルチャーといった言葉があまり好きではないのですが、作家の辻村深月にネオカル日和というエッセイがありますが「ネオカルチャー」としてのアニメや漫画、ノベルゲームなどを含んだ新しい文化を作っていくべきだと思うのです。

 

さてここからはキャスであった内輪的な話です。もはやどうでもいいことのようですがツイキャスで答えられなかった事柄があって一応書いておきたいので書くと、 マンコマンさんの二次元に三次元を見るという考えに私は完全に同意していて現実にいそうなキャラクターが好きとか書いたんですが、私がそうした恋愛脳(笑)なのは個人的な事情で、あまり世代的なものではないと思います。世代でいうとマンコマンさんのいうオタク第三世代(エヴァブーム)の頃は二次元や萌えという言葉が生まれる前なので、逆にあまり二次元・三次元という区分は意識されていなかったのかもしれません。

ちなみにマンコマンさんは宮台信者とのことで、これもキャスのコメントで私はけいおん立花姫子が好きとか書いてマンコマンさんにもそのキャラは可愛いと思うとか言ってもらえたんですが(笑)、立花姫子といえばルーズソックスを履いていて一見当時のギャル的なものを思わせるキャラクターです。宮台といえば援助交際やらブルセラやらの論で有名になった人ですから、もしかしたらそんなところに関連があるのかもしれません。

あとココロコネクトに対して永瀬伊織だけでなく茶髪も好きとコメントしましたが、そのキャラクターはメインの桐山唯ではなく、瀬戸内薫というキャラでした。(誰もこんなモブキャラの名前は知らないと思いますが……)松岡江に関してもそうだけどどうも私はモブ的なキャラクターのほうに思い入れがあるようです。

なおココロコネクトといえばアニメは見たもののラノベの方は途中で脱落してしまったんですが、もしかしたらメサコンの問題として読み直せるのかなと思ったんですが、まあもう読まないでしょう。メサコンに関してはこの記事の前から別の文章を書いているのですが、書き終わったらいずれ公開しようと思います。