宇宙の片隅の記

神秘主義的思考により世界・社会・実存について考える

映画「ひるね姫」のもう少しちゃんとした感想

前エントリでは映画「ひるね姫」について悪口を羅列したような感想を書いてしまったのですがなんだか申し訳なくなったので、また追補する内容もあり再び記事を書くことにしました。

 

ひるね姫のテーマには文明論的なものと、父と娘というものがあるのでその二つを分けて考えることにしたい。さて前エントリで紹介した栗橋氏はひるね姫を分相応に作ったとしているのだが、私はこれを開き直りのような作品であるように思う。というのは分相応ならまだしも、未来技術・テクノロジーに対する信頼は揺るぎなく確保されていて、それが明らかに希望として描かれているからである。私の見方は簡単で、それは映画を作るうえで根本的に間違っているという考えだ。

“「ひるね姫」はアニメ版プロジェクトX?エンジニアたちの涙が止まらないという”タイトルでTogetterにツイッターでの感想がまとめられているが、仮に私が何か映画を作ったとしてそんな感想を持つ人がいたら、それは素直にプロジェクトXを見てくれと思うことだろう。実にこのような感想が出てくること自体がこの作品のそしてアニメーションと想像力の敗北であると私は考える。

ソフトとハード云々の話があったが、作中の夢のシーンで労働に携わる人が自転車を漕いでいるのは、おそらくは現在労働者がそのような環境に置かれていることを暗示するものなのだろう。神山健治はそれで問題を提起したつもりかもしれないが、ひるね姫で謳い上げられているのはあくまでも技術そのものであり、末端の労働に携わる人々の人間的な努力や熱意――といったものではないのだ。その点ではプロジェクトXにさえなっていないということになる。実にエンジニア讃歌がなされているようでいて結局は何故そのように持ち上げられるかわからない「東のエデン」のニート讃歌と同じなのだ。(私はプロジェクトXの内容がよくわからないので憶測で言っているのだが)

さて現実には原発事故という大災害があったわけだが、文明によってもたらされた危機を乗り越えるのは、更なる未来技術であるという思想――その考えに全面的に反対しなければいけないわけではない。テクノロジーはこれからも我々に恩恵をもたらすだろうし、実際に生活を豊かに、更に便利にしていくだろう。確かに最終的にはテクノロジーが環境を破壊しない理想的な世界は実現されるだろうし、そのためには数多くのエンジニアの存在がいるはずである。私もそれを疑う理由は全くない。だが私が言っているのは、これは自動車業界が作ったコマーシャル映像ではなく、またNHKのドキュメンタリーでもなく、全国的に公開される、一般の人々を対象にした映画だということである。神山健治は確かに個人的にエンジニアにシンパシーがあるのかもしれない。しかし冒頭の場面では文明批評的に問題を取り上げたにもかかわらず、文明の危機を超えるものとしてテクノロジーを希望として謳い上げる、しかもそれがメッセージ的に叫ばれる――そのような作品は始めから間違っている、ということにすぎない。

 

もう一つのテーマである父娘について。うろ覚えで記憶が曖昧なのだが、最後のほうでココネが父親に向かってなにか話す場面がある。だが画面上に父親は描かれず、父親からココネを見ている視点としてその場面は演出されている。それ自体に性的なものは何もないはずなのに、どこか居心地の悪さを感じさせるのだ。

この気持ち悪さの正体はなんなのかということを考えていたら、全く知らない他人の父親が高校生の娘を撮影したビデオ映像を見せられている感覚だということに気付いた。そのため妙に淫靡で性的なものを感じさせる視線として現れてしまっているのである。そうならないためにはまず父親のほうに感情移入をさせ、そこからココネの存在が描かれなければいけないはずである。だがそれは何もなされていない。

そういった見方は評者の主観によってそう感じているだけで、穿った見方だという批判があるかもしれない。確かにそうかもしれないが、だが空白としての映像には何かが入り込むのだ。映像が、誰の感情も促されないいわば中立な状態に置かれるとき、そのままダイレクトに受け手または〈架空の受け手〉の心象の反映がなされてしまうのである。そうではなく、映像の受け手はまずもって登場人物に感情移入が促さなければいけないはずなのであり、だがひるね姫においてそうした努力はされてなく、全くといって描かれていないのである。

そうした〈ビデオ映像〉としての映像はエンディングにおいても同様であり、これもまた他人の夫婦を撮影したビデオ映像そのままなのだ。

 

ただのつまらない作品であるなら私は特にそれを批判する必要性を感じないのであるが、作品上に現れた思想に反発してしまった時には思想的に対決する必要があり、そういった作業はあまり居心地のよいものではない。だがどんな作品においても共感するにせよ、反発するせよ、そうした作業は必要なことだと思われる。小説や映画に接してつまらなかった時もうこの人の作品は観に行きませんといった感想が持たれることがあるが、私にとってはそうではなく、そうした反発がなされた時こそ思想を深化することのできるチャンスなのである。私はこの度のひるね姫神山健治の完全なアンチになってしまった訳であるが、村上春樹同様に”良きアンチ”として作品には今後も接していきたいと思っている。